Cahier-Sonore
音の手帖
2024.01.08
日記
打ち合わせのためにある町にやって来た。現代美術家が企画しているイベントの打ち合わせ。作曲や編曲、それからコーディネーターのような役割として関わることになっているイベント。
その町は昔から好きな町だった。綺麗に整えられた雰囲気に好ましさを感じるのか、それとも都会過ぎずも決して田舎でもないバランスの良さに心地よさを感じるのか。いや、小さい頃の記憶がぼんやりと思い起こされるものが、この東シナ海を一望できる町にはある。きっとそれが理由だと思う。
ある人にとって思い入れのある場所。多くの場合、その場所にはその人がそこで経験したものごとの記憶が沈積している。その思い入れの強さによっては、彼もしくは彼女の世界の一部をその場所は担っていて、それはその人にとって重大なことである。
しかし、その場所にはかつての彼らもそれを取り囲むかつての人やものごとも、もはや存在しない。
ただ、そこに存在するのはその「不在」だ。
つまりそれは「無い」。だけど、不在が存在するもしくは無いものがある、と言う方がしっくりとくる時がある。この言い方は日本語としては不自然だけど、外国語ではよく口にするものだ。
例えばドイツ語で「ここには猫がいない」は、"Es gibt hier keine Katze."という。
「Es gibt 〜」は「〜が存在する」、「hier」は「ここ」、そして「keine Katze」は「猫でない」を意味するが、これを間違った方向に向かって生真面目に訳すと「ここには猫でないものが存在する」となる。
この訳は完全に誤った訳ではあるが、「「猫の不在」がここにある」という文章にはまるで猫が不在であることそのものが存在しているといったような、哲学的な印象を与えるものがある。
とにかく「不在」だけは存在しているのだ。
その不在を確認すること。確かにそれは不在なのだけど、その確認によってそれがふと目の前に現れるような、そんな気持ちになることがある。
打ち合わせの場所に向かう途中、ある建物の前で立ち止まる。その建物には、昔幼い頃に通っていた塾が入っていた。今は別の全く違う団体がその建物を利用しているようだ。そして、その近くには公園がある。あの頃はこの公園は広くて、歩き回るだけでさまざまな発見と出会ったものだけど、しかし今となってみるとその意外な小ささに驚きを感じる。
そうしているとふと海の方から、沈澱した香りのようなものが流れてきた。そこから香る「思い出」と呼ばれるような何かによって、一瞬だけ世界に、霞がかったカラーフィルムと共にそのかつて存在したそれが現前する。
公園を眺めていると、目の前を少年が横切る。スマートフォンに着信が届く。そろそろ打ち合わせの場所に向かわなければいけない。また、遠くから海の香りが流れてきた。
2023.11.05
日記
久々の更新となりました。
この期間に私はドイツから沖縄に戻ってきました。
いろいろ考えることが多くありましたが、いつか時機を見ながら再び渡欧することを心に決めました。
自分自身の中にある焦る気持ちを感じつつも、そんな時に、かつて恩師が私に言ってくれた「心配するな。あなたぐらいの年の人は背伸びしようとして上手くいかないこともある。」という言葉を思い出します。目の前のことをこれからも一つずつ、着実に取り組んでいきたいと思います。
幸せなことに、沖縄に戻ってきてからまもなく、県内のホールやアーティストから舞台の制作や企画の案件がやってきました。ここ最近、ある舞台のシナリオをひとまず完成させたところです。これらの制作の話やメモを記録する場所を作りたいと思い、一度やめたnoteを再開することにしました。できればほぼ毎日更新したいとは思っています。それは本当にできるのか約束はできないけれど。
11月に入ったのにも関わらずまだまだ暑い。しかし、沖縄のこの季節は風が強く吹く。そのために、真夏のあの水気の多い重力を感じさせる空気ではなく、空気は流れ良く通過していく。真夏の平日の昼過ぎに浴びるシャワーのような心地よさを感じつつ。
noteはこちらから
2023.04.08
日記
ベルリンを去ってドレスデンに戻ってきました。イースターのこの時期のドイツにはアスパラガスやうさぎの人形が飾られていて、春先の雰囲気を感じさせます。
最近夢で昔のことやちょっと前のことを思い出すことがあります。何気なくしゃべったことや、真面目に語ったこと、ふざけて駄弁ったことなど。香り高い花が添えられたその記憶一つ一つにはうっすらとベールがかかっている。そのベールが日々重ねられていくせいで、その記憶そのものはあいまいなものへとなっていく。そんなあいまいな記憶が、ある晩に見る夢の中でその片鱗を見せて、ある場合にははっきりと思い出させて、ある場合には何だかよくわからない未体験なものとして認識させる。夢とはどうやら過去の記憶から成り立っているらしい。
アウグスティヌスが彼の時間論の中で、過去という時間を「記憶」という概念に置き換えていたと思うが(これもまた私のあいまいな記憶に基づくものだから確かなものかどうか少し怪しい)、そういった「記憶」は今もふと呼び起こされる。過去に対して美しさを感じる人にとって、その香り高い過ぎ去った時間は、パステルカラーの思い出をノスタルジックなものへと変容させる。
高校生の頃、何の機会だったのかもはや覚えていないけれど、沖縄の北部に担任教師に連れられて数名の生徒で行った記憶がある。そこへ向かう途中に目にした、あのどこかもよくわからない沖縄の風景。いまだにあれがどこの風景だったのかわからないけれど、いつかもう一度見てみたい風景。同時にさまざまな記憶、風景が呼び起こされる。学校の教会のオルガン、当時の同級生たち。合唱の時はいつも伴奏者だったから、みんなと歌うことはほとんどなかったけれど、伴奏しているときはとても楽しかった。『ファウスト』に出てくる「よろめける姿ども」のようにそれらは目の前に浮かぶ。そのような「失われた時」は香りとともにやってくる。きっとこの頃の沖縄には潮の気配を感じさせる春風が流れているだろう。その春風は失われた、というよりも選ばれ得なかった春を想起させたものだった。
先にあげたアウグスティヌスは過去を「記憶」と概念化したのに対し、未来を「期待」と概念化したと覚えている。推測することしかできない未来に期待を持ちつつ、その期待に沿うように決断をしなければいけないが、その過程の中で、かつて選ばれ得なかった春は突然魔物となってやってきて誘惑する。断固としてその春へ決別を告げなければいけないこともあるが、いつかその春を思って流れる涙もあるのだろう。
ドレスデンも春の気配を漂わせてきた。とは言ってもまだまだ肌寒い風の中に、春色の香りを感じつつ、午後の時間が過ぎていく。きっとこの春もいつか魔物となってやってくるのだろう。
2023.03.18
日記
この水曜日にUnter den Lindenに行ってきました。何度も行っているUnter den Linden。さすがに地下鉄の乗り換えも覚えてしまいました。今回の目的は大通り沿いにある書店。
この日のUnter den Lindenはきれいでした。太陽がどこか自信のない女の子のようにひっそりと佇んでいた水曜日。決して主張の強い太陽ではないため、この太陽はその場の雰囲気を変えてはいないように見えるけれど、いなくなってしまうときっと大きな喪失感を与えてしまうような、そんなタイプの太陽。
この頃からベルリンもようやく温かくなってきました。とはいっても平均気温は10度程度。不思議と環境によってその温かさの感じ方は異なってくる。
ここ数日間いろいろなことがあって、忙しなく時間が過ぎていったような気がします。そんな中でも人からメッセージや言葉をもらえるととてもうれしい気持ちになる。文章を読んだり書いたりすることは好きだから、こうやって言葉を考えている時間が私を落ち着いた気持ちにさせる。
ところで、自分のことをひけらかすようだけど、ドイツに来てよく「Deine Schrift ist so schön! -あなたの筆跡はとてもきれいね!-」と言われることがある。
たしかに、学生の頃からアルファベットの筆跡だけはほめらることがあった。私にはどういった筆跡がきれいで、どういった筆跡がきれいではないのかわからないし、自分自身決して読みやすい筆跡だとは思わない。むしろクセのある筆跡だと思う。
しかし何はともあれ、ほめられてイヤな気持ちはしない。素直に私は答える。「Danke schön!」と。
手書きの文章は何となくその人の人柄が見えてくる。達筆な文字の人はしっかりしている人が多い気がするし、丸まった文字を書く人に悪い人はいないと思う。どこか頑固な人は頑固な筆跡を持っているような気もする。
ただ、インターネットやメールの文章からは相手が見えないことがときどきある。昔から文章や言葉に対しての感受性だけは強かったけれど、いくら行間を読んでも何を考えているのか私にはわからない人もいる。
手書きの文章だと伝わりやすいことも、デジタルの文章だと伝わりにくいことってある、、、とぼんやりと感じます。
ここのところ、手書きで書く文章は日本語よりもドイツ語が断然に増えました。ドレスデンで購入したノートもいよいよページがなくなってしまい、そのためこの水曜日にUnter den Lindenに行ってきたわけです。
そして、もらったペンのインクもなくなってしまった。那覇を経つ前に上司からもらった替え芯がいよいよ出番を見せそうだ。
そして今日も太陽は、すれ違いざまにこっそりと微笑みかけてくれる。
2023.03.04
日記
今住んでいる安宿の周辺-つまり、Tiergarten近くの地区-を歩いているとトルコ語ばかりが耳に入ってきます。とはいえ、これはこの地区に限られたことではなく、Unter den Lindenを歩いていても、シャルロッテンブルク宮殿を訪ねても、ドイツ語ではなく、英語やトルコ語、もしくはその他の言語がよく流れています。
ベルリンはさまざまな意味で広い。ただ一言に「ベルリン」とは言っても、私が住んでいる宿から中央駅へ向かうためには地下鉄を乗り換えなければいけない。そのような意味でもライプツィヒやドレスデンの方がはるかに住みやすかったし、それらの場所で聞こえてくる言語はほとんどドイツ語であった。
そんな環境の中でドイツ語を少しでも多く使いたいために、この1週間朝食をカフェやパン屋で購入することにしていました。
日本でも同じように、カフェで注文する時は何がほしいのか言葉で伝えなければいけないし、これは日本とは異なり、日本のようにセルフでパンを取って会計する文化はおそらくドイツにはあまりない。つまり、パン屋でも必ずドイツ語を使わなければいけない。
そのようなわけでこれまでに宿の近くにあるいくつかのお店に行きました。
1つ目のお店は人が多くて店員も忙しそう。あまり落ち着かない雰囲気。
2つ目のお店は雰囲気は良いが、黒パンしか置いていない。
そして、3つ目のお店、ここの雰囲気は良かった。
そこはカフェ-というよりも「食堂」のような-でした。お店に入るとトルコ人風のおばあさんがレジに座っていて、どうやらこのヒジャブを頭に巻いたおばあさんが一人で切り盛りしているらしい。
何かサンドウィッチのようなものを食べようと思って入ったものの、そのお店にはそれは無く、代わりにシュニッツェルやクロワッサンがありました。そこでこの2つとミルクコーヒーを注文することにしました。
「今コーヒーメーカーを起動させたばかりだから少し待ってね」とおばあさんは感じの良い表情を私に向けてくる。テラス席で待っていると、シュニッツェルとクロワッサン、そしてそこにおまけに卵サラダを付けて、おばあさんがやってきました。
良い雰囲気で食事をし、もちろんミルクコーヒーも飲むことができ、「また来ますね」と言ってその日はこのカフェから出ました。
そして今朝。ベルリンでは冷たい雨がしとしと降っていた。
昨晩はプライベートの理由からあまりにも疲れていたため、ビールを飲み、簡単に食事を取り、そしてすぐに眠ってしまいました。この1週間はなんだか疲れた。やはりベルリンのような大都会で生活するのは大変だ。
朝起きて、「あぁそうだ、この前行ったトルコ人のおばあさんのお店で朝食を取ろう」と思った私は身支度をし、そのお店に向かいました。
お店に入り、「シュニッツェルとパン、それから…」と私が口籠ると、おばあさんが「Milchkaffee,oder?-それとミルクコーヒーね-」と笑顔で言いました。私のことを覚えてくれていたのか、このあたりで東洋人が珍しいためたまたま覚えてくれていたのか、もしくはそもそもあまりお客さんがいないお店なのかわからなかったが、ミルクコーヒーを注文しようとしていた私にとって、それは嬉しい気持ちにさせました。
そして「ここにあるものは全て自分で作ったのよ」と、おばあさんがレジに陳列されている、同じパンやケーキ、サラダだけれどもそれぞれがどこか個性的な、つまり手作りな感じのさせるものを指差して言いました。
やってきた料理はシュニッツェルとパン、そしてまたおまけの卵サラダ。
思えば、ここ数日温かいものを食べていなかった。だいぶ年季の入っていて、旅行ガイドブックに載っているようなお店ではないけれど、このカフェの静かな雰囲気は私を温かい気持ちにさせた。
短い滞在であったが、そろそろ私はベルリンの別の宿に移らなければいけない。ベルリンは広い。このお店に来ることも無くなってしまうだろう。
食後にチーズケーキを注文し、ミルクコーヒーを飲み、私は「Auf Wiedersehen」とおばあさんに伝えてそのお店を立ち去りました。
2023.02.25
日記
よく言われるように、外国語をある程度勉強していると夢の中でもその外国語をしゃべるようになります。
それは予想よりも早くやって来て、ドイツ到着の1週間後には夢の中でドイツ語を話し始めるようになりました。もちろん、夢の中で話すドイツ語は理想的な流暢なドイツ語ではなく、その時点での会話能力から反映されます。
また、次第に頭の中で日本語を勝手にドイツ語に変換するクセまで付いてくる。
きっとドイツ語を話すために脳が変わってきているのだろうと、それらは少し嬉しい気持ちにさせつつ、その反面、私の中の日本語がどっかに行ってしまうのではないかと哀しい気持ちにもさせました。
この水曜日に日本から本が届きました。
小さい頃から本だけは好きだった。ただ、本から吸収された言葉はそれを実際に使う方法がわからない状態で、私の中にはにかんだ表情で蓄積されていったようにも感じます。つまり、ただただ語彙ばかりが増えていき頭の中にいろいろな言葉があるものの、実際にその言葉はしゃべったり、書いたりされずに、流れ出ることがなく、ある種吃音的な状態で言葉が自分の中に止まっていた。
好きなものだけに厳選して日本から送ってもらった本。どうやらドレスデン近郊にある国際郵便局まで取りに行かないといけないらしい。アウトバーンを通るバスに揺られながら本を受け取りに行くことにしました。
地の果てのような場所にあるその郵便局から荷物を受け取るものの、次のバスが来るのは40分後とのこと。ここからドレスデン中央駅へ向かうバスは1時間に1本しかないようです。あたりには何もない。バス停で待ち続けるしかない。
ようやく来たバスの中で、その何度も読んでボロボロになった、八ヶ岳を舞台にした小説の一文に目を通すも、溢れてくる涙のために、もはやもうそれ以上読み進めることができなかった。
きっと、心のどこかできれいな日本語を欲していたのだと思う。
隣に座っている老紳士の気遣わしそうな視線を感じ、私は本を閉じて、窓の外に広がる牧草地に目を移す。
流れていく広大な風景にぼんやりとその小説の文章が浮き上がって止まり続ける。そして、涙は流れていくばかり。
やっと慣れてきたドレスデンの生活に別れを告げて、今日から私はベルリンに行かなければいけない。ドイツ語が口から流れ出るようにするためもう少し勉強をする必要がある。
ここに留まりたい気持ちを堪えながら、ドレスデンへ「Auf Wiedersehen!」を伝えてーいつでも私にとってつらいのは別れの瞬間ー、生活の拠点は流浪する。わずかに雪のようなものが落ちてくる中、ベルリン行きのICEが流れて行った。
2023.02.18
日記
ドレスデンの学校に通って数日経った頃に、クラスメイトの青年からたびたび話しかけられるようになりました。
その青年はクラスの初日にいなかったため、彼がどこから来たのか、そもそも名前もよくわからない、、、そんなことから、この前の月曜日2月13日に改めていろいろと聞いてみることにしました。
私 「ところでどこから来たの?」
青年「あぁ、ロシアだよ。」
私 「ロシア。いくつなの?」
青年「30歳さ」
私 「年齢近かったのね。何でドイツに来たの?」
青年「〜〜〜〜!」
移住、仕事もしくは勉強という返事を想定していた私は彼が言っていることが聞き取れず、「Bitte?」と尋ねると、青年は「für Spaß! (気晴らしのために)」と答えました。
このあまりにも若々しい雰囲気のロシアの青年が、ドイツにやって来てドイツ語を勉強している理由が、気晴らし、楽しみのためということに驚きました。私からすると、この学校は気晴らしで通えるほど安価な学校ではありません。
この2月13日はドレスデンにとって大切な日であった。第二次世界大戦中のこの日にドレスデンの空は絶望的な表情で落ちて来たらしい。
2月13日、この日はプライベートの理由からあまりにも疲れていて、17時にベッドに入った私は、突如外から聞こえてきたデモの声で目が覚めた。ドレスデンではあらゆるところで集会やデモが行われていたとか。
そういえば、この日にドレスデン・フィルハーモニーが開催したコンサートの演目はハンス・ヴェルナー・ヘンツェの交響曲だった。政治的に深い意味のある日にヘンツェの作品を演奏することに、この国に今も根付いている文化の深さを感じる。
「今晩ひま?」
軽いメッセージをロシアの青年は送ってきました。急に誘われて外出できるほど私は社交的ではないため、この時は忙しいふりをして別の日に一緒に夕食を食べに行くことにしました。
エルベ川を横目に通り過ぎて私は待ち合わせ場所に着くもののなかなか彼はやって来ません。待ち合わせ時間を数分過ぎた頃に「今向かってるよ!」とメッセージが届きました。この時間感覚のゆるやかさにどこか懐かしさを感じつつ、「Kein Problem!(問題ないよ)」と返信した私はその後結局30分ほど待つことになりました。
ロシアの青年は隣の部屋に住んでいるというブラジルからの女の子を連れてやって来ました。ロシアとブラジル、そして日本からたまたま集まった私たちはチェコ料理屋で食事を取ることになったのです。
ドレスデンに流れているエルベ川はチェコとポーランドを通るらしい。
ドイツの川と言えば一般的には「ライン川」と「ドナウ川」が連想される。よく「父なるライン」と「母なるドナウ」と言われるように、ライン川「Der Rhein」には男性形の冠詞が与えられ、ドナウ川「Die Donau」には女性形の冠詞が与えられる。
ブダペストやウィーンのようなかつての貴族の都を通るためか、ドナウ川からはどこか華やかな印象を受けるが、同じように女性形の冠詞が与えられるエルベ川「Die Elbe」からはその種類の華やかさはあまり感じられない。
そして、かつて数十年前に、エルベを静かに歩く雅やかな夫人のようなこの町にどのような悲惨なことがあったのか私には想像すらできない。
たとえ文明が文化を破壊したとしても、また、破壊されたことによってたとえ絶望的な眼差しを浮かべたとしても、文化がかつての文化と再開しようとする強い意志に、その誇りの高さを感じる。
ロシアから気晴らしでやって来たその青年のドイツ語は極めてわかりにくい。彼の、ロシア訛りの上に個性的なワードチョイスで乗っかったドイツ語はカタストロフィを迎えている。彼の言いたいことを理解するためには根気と高い集中力を要し、その上なかなか難しいことを聞いてくる。「なぜ日本語にはひらがなと漢字があるのか?」と聞かれて、それに対して私は「それが日本語だ。」としか答えられない。
その青年はクラスの最終日にはスウェーデンに行き、その後は別の国に行くらしい。最終的に彼がどこに行くのかは知らない。
もしかしたら私たちはどこか別の土地でお互いを認識してたまたま出会うかもしれないし、もしくはお互いに気が付かずにすれ違うかもしれない。そういったことに淡い寂しさを感じるものの、だからこそ良い時間を過ごせたのではないかとも思う。
結局のところ、私は彼のことを全く憎めない。変なドイツ語をしゃべったり、空気が読めずに何となくクラスで浮くこともあるが、彼が言うにはいろいろな国の人と交流を持ってその人のことやその人の文化を知りたいらしい。彼がよく話しかけてくれることはとてもうれしいことだし、決して悪い人ではないと心から思っている。
私が「いつかロシアに行ってみたいよ。」と言うと、「本当に?」と一瞬嬉しそうな眼をしたが、「だけど今は難しいよ。」と虚無的な表情に変わった。そして、そのニヒルな表面の奥底に意志の強さを感じさせる眼を向けてロシア青年は私に言ってくれた。
「今度は別の店に行こう!für Spaß!-気晴らしのために-」
2023.02.11
日記
4年間も使っていなかったドイツ語を思い出すためにライプツィヒを離れてドレスデンに来ました。
同じ東ドイツで、同じようにアンペルマンが歩行者を誘導しているライプツィヒとドレスデンは空気が異なるものの、ドイツのどこにいても私が感じるものはその鬱々とした空です。
長いこと日本、しかも沖縄という南国に住んでいた私にとってドイツの空は私が見てきた空とあまりにも異なります。
この空を見ていると、かつてライプツィヒの教師が、ドイツの空は重い雲を垂らしているが、その雲間から時々差し込む太陽の光に美しさを感じる、そういったことを語っていた姿を思い出します。
しかし、空は紛れもなく空であるものの、それをドイツと日本とでは異なるように感じるのは、紛れもない空が実は異質な空なのか、それとも私自身の眼差しが変貌しているのか。
私が見ている世界と他者が見ている世界は決して同じものではない。また、私の世界も他者の世界も少しずつ流れていき、世界はその一瞬一瞬に終わりを迎えている。
世界が別物であるという現実、そして他者の世界のうつろいゆく重さを支えることができるかどうかという孤独な不安に悲しくなることがあります。
よく気楽に言われるように、他者の世界を見つめることが理解への一歩であるが、しかしそれは簡単なことではない。
かつて幼い頃に、ブラウンの髪の女の子がバレンタインデーの日に勇気をもって好きと伝えてくれたその世界を、自分の世界に閉じこもってあまりにも幼かった私は支えることができなかった。自分の不器用さをありありと感じさせる。
たとえ、全世界が私もしくは私たちを拒絶しても、大切な人の世界、それだけでもしっかりと、両手で抱きしめることのできる自分でありたいと思う。
そして、ここで歩行者を誘導しているアンペルマンが見つめている世界をも感じることができれば、それだけでも幸せな気持ちになるかもしれない。
異なる世界の狭間から時々差し込む光、そういった世界の共通項を感じながら、今日もドイツの1日が始まる。
2023.02.04
日記
またライプツィヒに戻ってきました。コロナ禍を過ぎてからのライプツィヒとの再会。思っていたよりも何も変わっていなかったことが個人的にはおどろきでありつつ、再び出会った初恋の女の子がその性格の大切なところを全く変えずに持っていたような、そんなうれしい気持ちになりました。
ライプツィヒでは集中的に音楽理論の研究を進めたいと考えています。できれば今年中に論文を1本仕上げつつ、コンクールにもチャレンジしたいところです。
つくづく自分の不器用さに落ち込むことはありますが、そんな私を送り出してくれた人々のこと、励まして楽しませてくれるために時間を共に過ごしてくれた人々のことを大切にしながら、できることを着実に進めたいと思います。
今日のライプツィヒの天気は晴れ。澄み切った空気の中で変わらずに佇んでいるバッハ像を見ながら。
2022.09.21
日記
友達の作曲家北崎幹大さんから楽譜集が届きました。予約注文をして楽しみにしていた楽譜集。「死生観」をテーマにしたものとのこと。
「死」という大きなテーマで日記を書くには、30歳という私の年齢は早すぎるのかもしれない。だけど、「死」というものに限りなく近い、「別れ」についてはよく考えることがありました。何かとの別れとは常に自分自身との別れである、と感じることがあります。その他者との別れに伴って、その他者と関わっていたこれまでの自分自身と切り離される瞬間、それが別れのつらさなのだろう。そういう意味では、別れのつらさとはある意味でエゴイスティックなものであるとも言える。
ところで「死」と言えば、私が敬愛する哲学者と「死を待つ囚人」との対談集を思い出す。あまり拡大された意味に捉えられないようにより具体的に書きますと、「死を待つ囚人」とはつまり「死」が刑として与えられる囚人のこと。しかしながら「死」とは人が皆生まれた以上待ち受けるものであり、サルトル風に言えば、「人間は「死」への刑に処せられている」。その「死」への刑に処せられている囚人は、最終的には「よく生きること」を選択して死を待つことにしたと、そのようなことが対談集に書かれていたと記憶しています。自己と他者が切り離されることを「別れ」と言うのであれば、「別れ」とは「死」への演習であり、人がより良く生きるために考えるきっかけの一つであるのでしょう。
この日記を書いている時刻は午後3時30分。「この三時というのは、何をしようと思っても、常に遅すぎるか、または早すぎる時刻だ。」とサルトルは言いましたが、もしかしたら30歳前後という微妙な時期に「死」について考えることは早すぎる(もしくは「遅すぎる」)かもしれない。しかしながら、その待ち受ける「死」に向かってよく生きるための指標を「自由」に選択しつつ過ごしたいと感じた秋晴れの1日でした。
2022.08.04
近況について
大学では前期が終了して夏休みに入りました。日常が少し落ち着いたところです。
久しぶりの休日に何か書いてみようかと感じたものの、少し気が進まないのでまずはお知らせのみを。
ここ1年間noteやTwitterをやってみましたが、さまざまなことに手を出すよりも一つのものに取り組む方が性に合っているだろうということで、あらゆるSNSをやめることにしました。その代わりにこのホームページを少しずつ整えていこうと思います。
noteにはいくつかの記事を投稿しましたが、そのうちこのホームページで再度公開する予定です。このホームページで公開して一体どれくらいの人が読んでくれるのだろう、、、とふと感じましたが、そもそもポートフォリオのようなつもりで始めたホームページ。少しずつでもみてくれる人が増えればいいかなと思っているところです。
相変わらず蒸し暑い那覇の昼下がりにふとぼんやりとしてみると、終日規則的に通過するモノレールの音と、思い出したかのように鳴き出す蝉の声が聞こえてきます。規則性と非規則性が入り混じるこの世界は、その一瞬一瞬が偶然の賜物でできていることがわかります。そんなことを考えると、この一瞬が二度とやってこないように感じて、淡い哀しさを感じることがよくあります。「だからこそこの一瞬を一生懸命生きるべきである」と簡単に唱えることができても、その哀しさを乗り越えることというのはなかなか難しいことですね。
ということを書いたところで、ご飯の炊ける音が聞こえてきました。今日はここまで。それでは。